しずおか文化のページ伊豆文学賞第3回開催結果→佳作

第3回伊豆文学賞

佳作受賞作品

『裏見の滝』 柏木節子

 暑い夏をひきずったまま、九月は半ばを過ぎようとしていた。真夏の勢いそのままの陽光が、容赦なく地上を照りつける。
 その強い陽を浴びて、頭を深く垂れ、刈り取られるのを待つだけの稲穂が、まぶしい黄金色の光を放っていた。
 雛段のように区画された田地が、狩野川流域から山裾までのなだらかな斜面に整然とならび、豊饒の地を象徴している。ゆるやかに横たわる川の対岸にも、緑の木々を縫って、鮮やかな実りの色が見え隠れしていた。修善寺町日向地区は、観光客で賑わう温泉街とはまた趣の異なる、静かな田園地帯だった。
 優香の住んでいる三島広小路から伊豆箱根鉄道に乗れば、三十分もしないうちに終点の修善寺に着く。にもかかわらず、まもなく二十八歳になる優香が修善寺を訪れたのは二、三回しかなく、それも薬科大学に在学中のことだった。
 優香が三歳のときに母と別れて再婚した父が、いまも修善寺に住んでいることは知っていたが、それが日向地区であることまでは知らなかった。
 修善寺も温泉街しか行ったことのない優香は、友人たちと桂川に沿って散策しながら、このあたりに父の家があるだろうかと人知れずきょろきょろしたり、また、面を壁に掛けて売っている土産物屋に寄ったときは、荒々しい表情の般若面や穏やかな翁面を比べ見て、父はこちらの翁面に似ているんだろうなと思い、不意にそこに本物の父が現れやしないかと、店と奥を仕切る暖簾のあたりに視線を泳がせたりもした。
 いま優香は、日向の父の家にいる。田の風が吹き抜ける八畳間の、ぶ厚い真新しい座布団の上に正座したまま、菊の花で縁取られた父の写真をじっと見上げていた。
 場違いなところにきているという思いがしきりにする。
 会いにきた父は、もう亡くなっていた。
「きのう、初七日の法要が終わったばかりなんですよ」
 低い声で中沢純子が言った。母と離婚した翌年に父が再婚した人だった。突然の優香の訪問に、自分のことを「純子です」と名乗ったときの、戸惑いの表情がまだ優香の瞼に生々しく残っている。草取りでもしていたのか野良着姿だった。姉さん被りにした手拭いをはらりと取り払い、大きな目で正面から優香を見据えた。背は低いが、母より若く美しい人だった。
「お父さんが亡くなったこと、知らないで来られたなんてねえ」  父の遺影を見つめたまま動かない優香に、純子は驚きと冷淡と同情をないまぜにしたような口調でいったあと、
「故人の意思で、お宅には知らせなかったんですよ」
 言い訳けにしては、冷たいよそよそしい声で付け加えた。背後にいるため顔の見えない純子が、能面のような薄皮を被って喋っているような気が、優香はした。

 優香が沼津にある仕事先の病院を出たのは午後一時を大分過ぎていた。その足でデパートの果物店に行った。土曜日の昼過ぎとあって、店内は混雑していた。一個五千円もする箱入りメロンを買ったあとも、優香はまだ心を決めかねていた。このまま広小路の家に帰ってしまおうか。いや、見舞いの品を買ってしまったのだから、やはり修善寺に行かなければ。心の奥に、そんな逡巡を重ねながら、それでも、車を駅隣りの有料駐車場に預け、三島駅から伊豆箱根鉄道に乗った。
 修善寺駅は温泉客で膨れ上がっていた。駅まえに二列横隊で待っていたタクシーが次々とその膨らみを消化させていく。客の乗っていない大型観光バスが二台、右手の狩野川にかけた赤い橋に向かって出ていった。
 タクシーに乗りこむと、胸の奥に新たな波が立ち始めた。父の病状はどんなだろうか。優香の突然の訪問を、父はもちろん、父の家族が快く受け入れてくれるだろうか。
 婿養子だった父は母と離婚し、一年後、再び、中沢家の婿養子として入籍した。父がその人生の中で、二度も他家に籍を移した事情や背景を優香は知らない。
 優香の家で、父の話題がでることはほとんどなかった。話がその方向に流れ出すと、母か祖母のどちらかがうまく反らしていくのを、優香もいつのころからか感じ始めていた。父のいない生活はあたりまえになっていた。
 叔母が、聞きかじった父の情報を、こっそり教えてくれるようになったのは,優香が沼津の高校に通い出したころだ。大仁に大きなビルが完成したが、それが父の中沢建設の施行によるものだとか、家で不幸があって、おばあさんらしい人が亡くなった、とかいうものだった。
「お父さんてどんな人だったの」
 叔母に尋ねた。
「いい人だったよ」
 一言でかたずけられて、優香は思わず笑ってしまった。
「いい人って、これといって特別に何かいいところがない人を、とりあえず褒めておく言葉じゃない」
 叔母は優香をにらむと、
「優香って意外にきついんだね。まるで姉さんみたい。いい人っていうのはつまり、自分の苦悩をおもてに出さないで、他人のためにひたむきに生きている人のことをいうのよ」
 三歳の自分がいるにもかかわらず、家を出ていった父をどうしていい人と言うのか、優香にはわからなかった。
 父が癌の手術を受けたが、手遅れのようで、すでに自宅療養にもどったと叔母が教えてくれたのは、一カ月まえのことだった。
「おばあちゃんとお母さんは知ってるの」 「さあ。どうかしら。今さらって思っているんじゃないの。もうとっくに他人だもの。あちらだって知らせる義務はないわけだし。ただあんたはどうなの」
「どうなのって…わたしに会いに行けってこと?」  叔母はそれにはなにも答えず、優香の返事を待っていた。
 優香は叔母の顔を見つめ返してから、
「わたし、むかし、一度だけお父さんに会ったことがあるのよ」
 喉もとまで出かかった言葉を、すっと呑みこんでいた。
 あのときの男の人が本当に父であったかどうか確信がない。父に会うことがあれば、それを確かめてみたかった。
 長いあいだ、優香の頭の隅に、幻影となって住みつづけてきたあの日の情景…
 ちいさな丸い池。白い滝。水辺の岩。
 岩の上に、四十歳前後の男が腰をかけていた。男の膝には三歳くらいの色白の男の子がいる。そして優香。三人の視線の先には、丸池に注ぐ真っ白な滝があった。やがて男は幼い子を抱き上げ、優香の手を引くと、岩がごつごつした、足場の悪い池の周囲を歩き出した。男の子は人見知りが激しく、男の肩越しに、ときどきちらっと怒ったような顔で優香を見つめた。三人は滝から目を離さずに、滝の周りを一周ぐるりとまわった。滝の裏側にきたとき、ふわっとしぶきが顔にかかった。細かい霧が鼻の中まで入り、「わっ」と優香と男の子がいっしょに声を上げた。そのとき初めてその子は優香に笑顔を見せた。にっと笑ったちいさな赤い唇が、どこかで見た木の実のようで愛らしかった。
 優香を見る男の目は、慈愛に満ち、湖面のように穏やかだった。その日、男は優香に向かってなにげなくこう言った。
「ここに来たことは、だれにも言うんじゃないよ。いいね」
 優しい声だった。思わず大きくうなずいてしまうほどに暖かい声だった。
 土産物屋で微笑んでいる翁の面を見たとき幻の父の面影がそれに重なった。
 前後の記憶がはっきりしないので、夢だったかとも思うのだが、夢よりずっと現実的な印象を残していることを考えれば、やはり実際あったことにちがいない。あれは父で、あの日、優香を滝のある池に連れ出したのだ。男の子は父の息子で、父が姉と弟を引き会わせようと企てたのではないか。
 優香はそう考えて自分自身を納得させた。
 父が優香を自分の娘として、いとおしく思っていたことの証しであるように思われた。
 父に連絡を取るにはどうしたらいいのかと本気で考えたことも幾度かあった。しかし、母や祖母の心情を思うと、やはり行動に移すことはできなかった。母は小学校の教師をしながら、祖母は食事をはじめとする身のまわりの世話いっさいを引き受けながら、共に過保護と思われるほどの情愛を優香ひとりに注いできた。叔母を加えた女四人の暮らしに不満はなかった。父なしで暮らしてきた二十数年間の、それなりに平凡で、平和な生活に、あえて歪みを生じさせることはない。
 入ってはいけない領域に踏み込み、いままで母と祖母とで、すっぽりくるみあってきた真綿を突っついて、剥いでしまうことはない、と思い直したのだった。
「もしあんたが会いたいというなら、車で日向まで連れていってあげるよ」
 叔母の真剣な眼差しに優香はたじろいだ。
 突然のことで、心の準備がまったくできていなかった。父の愛は確認したい。が、重い病に伏している父に二十年もまえの幻のような話を持ち出すことなどできはしない。父に対して本能的な思慕の情を感じるには、あまりにも父は他人であった。空白が長すぎた。
 化粧品会社の管理職として多忙な日々を送っている叔母だが、優香のことになると、母親以上に心を砕いてくれた。
「でもやっぱり、今会う気持ちになれない」
 優香はそう答えるしかなかった。

 あの日から一カ月がたっていた。
 金色の稲穂を揺らせて渡ってきた涼風が、ガラス障子や襖をいっぱいに開け広げた田の字型の家の中をさっと吹きぬけていく。
 庭先で突然蝉がなきはじめた。蝉はひとしきりないたあと、ぴたっとなきやみ、飛び去っていった。
「優香さんは、お父さんに会ったことはあるのかしら」
 不意に純子が身を乗り出すようにして聞いた。
「いいえ、一度も」
 事実か夢か定かでないまま、心の中ですでに一枚の絵となっている滝の池でのことをここで口にするのはさすがに気が引けた。
「そう、一度も」
 純子は確かめるかのように繰り返すと、
「それじゃあ、お父さんの顔、全然覚えてないの」
 畳み掛けるように聞く。
「ええ。この写真で初めて。家には父の写真もありませんし、父の話もでませんので」
 純子は答えなかった。やがて、
「それじゃあ、生きているうちに会いたかったでしょうにねえ」
 かすれた低い声で言った。純子の語調が少し変わってきたことに優香は気がついた。冷たい能面の薄皮が剥がれて、心の中の思いがこちらに向けられたような気がした。もともと情の厚い人なのかもしれない。
 夫が先妻の娘に無断で会っていたとしたら、それはやはりあまり快いものではないのだろうと、優香は考えた。
 悪かったね、と純子が不意に言った。
「いいえ、いいんです。この写真を見られただけで」
 優香の言葉もまた本心からでてきたものだった。心のもっとも奥深いところで、優香はホッとしていたのかもしれない。
 優香は、確かに、父がまだ病床にあると思っていた。父が亡くなったという話はきいてなかった。しかし、元気な父に今会ったところで、父とどんな会話ができるというのか。二人のあいだにどれほどの話題があるというのか。二十年以上も別に暮らし、たがいの顔も声も習慣も人となりもまったく知らず、町ですれちがっても、それと認知できない者同志が、ただ血のつながった父と娘というだけで、果たして心が通い合うものなのか、優香には自信がなかった。
 まして、瀕死の床の父に、自分はどんな言葉をかけられただろう。馴染みも親しみもなく、記憶のほとんどない父の姿に、死を迎える人におしなべて抱く哀切の情以上の、熱い感情を抱けただろうか。それにも自信がなかった。  それならば自分はなぜ、迷いこそしたものの、いまごろのこのこと、ここへやってきてしまったのか。
 父の遺影を見あげたまま、優香は自らに問うてみた。写真の父の顔は、眉が太く、鼻筋が通り、頬から下はやつれたように細かった。優香の幻の記憶にある父の顔とは少し違っていた。もっとふっくらして穏やかな面差しだったような気がした。
 ふと二週間ばかりまえのことが甦る。
 優香には、薬科大学の同級生で、もう六年も付きあって、結婚を考えていた田原という薬剤師がいた。ところが、田原が突然別れたいといいだした。何が何だかわからず、茫然とした日々が何日も続いた。それから、泥沼を這うような苦しい日々が始まった。うちのめされた失意の底で、優香は自信をなくし、自己嫌悪に陥っていた。
「所詮優香の相手じゃなかったのよ。そのうちきっと現れるわよ、本物が。あんたの父さんみたいな男の人がね。あたしなんか、いまだに本物捜ししてるのに、ちっとも。そういうもんなのよ」
 わたしは化粧品会社と心中するからいいのと五十になった叔母が言うと、
 「お父さんみたいな男なんて、冗談じゃないよ。田原さんはあの人とはまったく違って性格が明るくてはっきりしているから、優香にはいい相手だと思ったのにねえ」
「うちはやっぱり男運がないのかねえ」
 母と祖母は肩を落として嘆いた。
「まあ、まあ、女系もいいじゃん。気楽で捨てがたいよ」
 叔母がその場を明るく繕ったが、優香の胸の中にぽっかりあいた空洞は容易に埋まりそうになかった。母や祖母の優香ひとりに向けられるねっとりした情愛もうとましく感じられた。
 田原を優香の婿養子に迎えたい母の意向は、もちろん優香を通して田原に伝えられていた。別れる原因はそれではない、愛情が冷めたのだと言われれば、こちらは何も言えず、何ひとつなす術もなかった。
 先祖の残した自分名義の土地を駐車場に貸し、経済的に不安のない祖母。結婚後も離婚後も教師を続けている母。化粧品会社の管理職をしている叔母。自分も一生薬剤師を続けながら、自立した女世帯の一員としてここで年老いていくのかもしれない。
 父に会いたいと思った。いつになく強い思いに捕らわれた。
 六十で病いに倒れた父であっても、会えば自分の心が癒されるような、何か生きる力を与えられるような、そんな気持ちになったのだった。田原自身への未練はもうなかったが、綻びてしまった心の繕いはまだできていなかった。迷いながらも、幻の父、父という存在に引き寄せられるように、日向にきてしまった。
 しかし実際、優香が、病身の、痩せ衰えて、恐らく醜くさえなっているであろう父を見舞うには、かなりの勇気が必要だった。
 父のそんな姿を目の当たりにせずにすんで、優香はホッとしたのだ。遺影の父に幻の父を重ねるだけで十分だった。
「優香さん、病院で薬剤師さんしてるんですってね」
「はい」
「もう三、四年まえかしら。お父さんが風の便りに聞いたらしく、ふっと漏らしたことがあったから。ねえ、こんなお奇麗になった優香さんにお父さんも会いたかったでしょうに。お父さんは自分の病気のことを知っていて、お宅には知らせるなと言ったんです。それで、わたしが「優香さんにも」と聞くと、さすがに返事をしないで、涙をぼろぼろ流してねえ」
 しばらくやんでいた涼風が、また穂波を渡って縁側からはいってきた。丈が半分ほどになった線香から立ち上る、か細い煙を見ながら、優香は純子の言葉を反芻していた。父の思いを初めて知ったような気がして、胸の底に熱いものが流れるのを感じた。
 しばらくすると、背後に人の気配がし、後ろを振り返った純子が、
「ああ、お帰り」
 と湿った鼻声で言うのが聞こえた。
 優香が振り向くと、白いTシャツとジーンズ姿の若い男が立っていた。男は優香に黙礼をすると、その場に不器用に正座した。
「息子の智也です」
 純子は、我が子を自慢する母親の顔付きになっていた。北海道の大学にいっているのだが、父親の容体が悪いとき、ちょうど夏休みで家にいてくれて、大助かりだった。来春卒業したら、本人は地元にもどって、中学の体育の教師になりたいといっているが、今のご時勢、教師になるのも、なってからも、大変なことらしい、というようなことを、うれしそうに説明した。それから息子に向けて、
「三島の優香さん。前に一度話したことあるよね。お父さんに会いにきてくれたんだよ。亡くなったこと、知らずにね」
 と言って、思い出したように、目を潤ませた。

 「あのノートは、確かまだ戸棚の中にあったはずだけど」
 そう言って立ち上がると、純子は廊下続きの隣の部屋に入っていった。
 父の祭壇のまえに広げたテーブルを三人で囲み、純子の手作りだというお萩を食べていたときのことだった。
 優香にお茶のお代わりをすすめながら、話題が途切れないようにと、細かく気を遣う母親と、ほとんど喋らない息子。
「お父さんのこと知りたくて。何でもいいんです。どんな人なのかなっていつも思っていたから」
 父の何をどう聞いたらいいのかよくわからないままに、優香が口火を切った。実際、優香は父のことをほとんど何も知らなかった。叔母から聞いたことと、あの幻のような情景以外に。
 そのとき、今まで黙っていた智也が、
「あのノート見てもらったら」
 母親にぼつりとつぶやくように言った。
「おやっさん、天涯孤独だったから」
「お父さんの家族、みんな台風で死んでしまったんですよ。お父さんひとりだけ運良く助かって…」
 純子が話を受けるかたちになった。
「両親とおじいさんにおばあさん。それに、お兄さんとお姉さんと妹ひとり。七人もいた家族がみんな、昭和三十三年の狩野川台風でね。お父さんはそのとき二十一歳だから、いまの智也ぐらい。大きな兼業農家だったんですけどね、田も畑もワサビ田も全部流されて。わたしはあのころまだ小学校の五年生だったけど、親戚にも亡くなった人がいて、大変だったことをよく覚えていますよ」
 四十年まえ、中伊豆地区に豪雨をもたらした台風は、修善寺町に六百数十名の死傷者を出し、二百数十戸の家屋が全壊、流出した。「水の猛威ってほんと恐ろしい。床に上がった水があっというまに天井まであふれたっていうから」
 それは優香が初めて聞く衝撃的な話だった。茫然とした思いで父の遺影に目を上げた。
 純子は薄汚れた大学ノートを手に隣の部屋からもどってきた。
「お父さん、自分からはだれにもこの話をしなかった。辛すぎる話ですもんね。あれから十年して、それでもノートに少し書いてみる心境になったんですかね。最初の三ページだけしか書いてないけれど」
 言いながら、そのページを繰って見せた。なるほど始めから三ページだけは文字で埋まっていたが、残りは真っ白だった。鉛筆で書いたらしく、ところどころ薄くなっているのが優香のところからも見て取れた。
「お父さんがうちに来てしばらくしてからからな。戸棚でそのノート見つけて、中をちらっと見たら、台風のこと書いてあるようだったから、そのままもどしておいたんですよ」
 表紙に昭和四十三年九月二十六日とだけ書かれたノートを優香は受け取った。受け取りながら、その年がどういう年だったのかふと考えた。優香の生まれる三年まえだ。その年の三月に父と母は確か結婚していたはずだ。このノートはつまり、優香の家にいたころ書かれたものだ。その発見は優香の心に密かな感動を与えた。
 純子の語る台風の惨状を息をこらして聴いているうちに、時間がたち、夕刻になってしまった。
 三島まで車で送るという智也の申し出を断り、修善寺の駅前でおろしてもらった。来週返すという約束で純子から借りた父のノートを電車の中で読みたかった。
 日没は確実に早くなっている。うっすらと透き通るような丸い月が黒ずんだ空に浮いていた。電車の座席に腰をおろすと、優香は父のノートをおもむろに開いた。
 三十一年まえ、優香のあの家で父が書いたノート。初めて見る父の筆跡。そこには角ばった右上がりの荒々しい文字が並んでいた。苛酷な記憶がその文字に現れたのだろう。
 優香の生まれる三年まえの新婚生活のころから、両親のあいだにすでに亀裂が入っていた、などと考えたくなかった。

|昭和四十三年九月二十六日
 あの忌まわしい日からちょうど十年がたつ。新しい家族を得たいま、失った肉親の冥福を新たに祈りつつ、あの夜自分が見たままを書き残そうと思う。
 雨が降っていて月は見られなかったが、十五夜の晩だった。大型台風上陸のことはラジオで聴いて知っていた。風雨が強まり夕方早くから母が家中の雨戸を閉めていた。私を除いた家族七人が茶の間で身体を寄せ合い、外の激しい風雨に怯えていた。私は台所の隅でどんぶりごはんに生卵二個と醤油をぶっかけて、かっこむと、父の小言を背に受けながら家を飛び出した。風雨激しい中、雨合羽をきて自転車に乗ってNさんの家まで行った。マージャンをやるのだ。Nさん、Kさん、Yに私の四人ですぐに卓を囲んだ。台風なんてマージャンをやっているうちに通り過ぎてしまうだろうと高をくくっていた。
 地元の高校を卒業し、W建設に就職して三年、二十一歳の私は給料のほとんどをパチンコとマージャンに注ぎ込んだ。仕事以外の時間は食べる間も惜しんでどちらかに熱中していた。のめり込んでいた。
 何かの拍子に雨戸の激しくきしむ音がしたが、熱中すると何も耳に入らなくなった。Nさんの奥さんが駆け寄ってきたとき、電気も消えた。床が水浸しになったかと思うと、あっという間に腰、肩、首と水位を上げていった。私達は以前蚕を飼っていたという屋根裏部屋の階段をかけ上った。水が追いかけてきた。「屋根を突き破れ」とNさんが叫び、みんな必死になって藁葺き屋根を掻き分けるようにして、首だけ屋根の上に出した。気が付くと家は流されていて、あたりは一面海か大川のようだった。あちこちの家が流れていた。屋根の上で泣き叫んでいるひとたちもいる。いろんなものが濁流に流されていた。人や豚や丸太や大木、家財道具や家の柱やちゃぶ台、襖、障子などそれこそありとあらゆるものが流れているのだった。首だけ出した私達四人もその中にいた。感情も身体中の感覚も麻痺していた。Nさんの奥さんの姿はもう見えなかった。そのうち、Yが「オレ、向こうに泳いていってみる」そう言うが早いか、濁流に飛び込んだ。現れたYの頭を流木が襲った。再び濁流に沈んだYは二度と上がってこなかった。目の前に千歳橋が見えてきた。流出物がみな橋桁にひっかかっている。「このまま行くとやられる。手前で首を中に引っ込めろ」Nさんの言葉に目を橋桁に集中させた。タイミングをはずすと、首がもぎとられてしまう。橋が目前に迫った。息を吸い、気合を入れて、藁屋根の中の濁流に頭を突っ込んだ。激しい爆音と衝撃を感じたところで私は気を失った。家は全壊したのだろう。気が付くと、わたしはたったひとり丸太にしっかりつかまって、まだ流されていた。腕に何かがいる。見ると、蛇が腕や足や身体に巻き付いているのだった。私はそれらを残る力を振り絞って払いのけた。やがて減水して流れからはずれた川辺の汚泥の上に、紫色に腫れ上がり、総身傷だらけの仮死状態で残された。
 一夜にして、家族、友人、仲間、それに家や田畑のすべてを私は失った。
 台風の去った夜空は澄みきって、美しい月が、地上の地獄絵をこうこうと照らしていたという|

 優香はノートを閉じた。
 衝撃の激しさに思考が止まっていた。くらくらと眩暈がし、しばらくのあいだ、なにも考えられないほど身体が硬直していた。
 自然の猛威と戦って、ひとり生かされた父。貴重な命。そしてその命を引き継ぐ自分がここにいる。それだけは確かな事実として、心の奥底にしっかり定着した。
 地獄絵をその目で見、死の境界線を漂い、あげくの果てに、七人もいた家族全員を失った男の、その後の生涯など誰が想像できようか。
 電車は、夜の闇の中をなにごともなかったように狩野川を渡り、三島に向かっていた。

 車一台しか通れない舗装された道路が、山林の中を這うように続いている。
 年輪を重ねた杉の大木が真昼の陽の光と熱気を遮り、ときおり差し込む木漏れ日がなければ、日暮れ時かと錯覚してしまうところだ。木漏れ日の当たった場所だけは、熱くまぶしく輝き、スポットライトを浴びた舞台さながらに、いまだつややかな緑の夏草を浮きだたせていた。
 優香は、ほどよくクーラーの効いた車の助手席に座りながら、次々と後方へ流れていく木々の太い幹を目で追っていた。
 智也はたくみな運転さばきで、蛇行する山道をのぼっていた。
「こんな山の奥に湖があるなんて…」
 優香は、智也の端正な横顔に、もう同じことばを三回もつぶやいていた。
 十分も走ると、林が切れ、開けた視界にゴルフ場が現れた。そこで山道は右に折れ、ゆるやかな勾配で下り始めた。不意に現れた青い広がりに胸を躍らせると、それは、木々の葉先にみえた青空だった。
「いつ湖に出会うのかと思うと、胸がどきどきするわ」
「ふ−ん。ボクはそんなに感受性強くないっすから」
 湖が見えれば、ああ湖があったって、それだけのことですよ。
「おやっさんがここの取水溝の修理工事をしたのは、昭和三十年ていうから、台風の三年まえ。もう四十年以上も前のことになる。「日向の溜め池」っていって、小さい頃はよくいっしょに釣りにきたなあ。ヘラブナが釣れるから」
 ぶっきらぼうにきこえるのは、声が低過ぎて語尾がかすれてしまうからだろう。
 早霧湖は立ち並ぶ木々の向う側にゆるりと広がっていた。対岸の湖面は、被いかぶさるようにせりだした木々の緑を吸いこみ、地上よりもっと澄んだ濃い緑色に染まっている。「こんな湖の底の工事をしたなんて、すごいな。想像を絶するわね。だって水を全部掻き出さなければならないんでしょ」
 ねえ、と智也は軽く同意してから、
「でも、湖といったって、もともと潅漑用の人造湖だから。せいぜい周囲一キロでしょ。当時もこんなに水量があったのかなあ」
 と最後はつぶやいた。
 もともとあったこの凹地に、山から流れてきた水が溜ったので、周囲をせき止め、溜め池として利用しはじめたのが、享保六年というから、もう二百七十年以上も前のことになる。
 昭和三十年に、水を吐かせ、堤防の底にある取水ゲートと底扉に土を埋立て、水が漏らないよう強化工事を施行したのだという。
「この溜め池に、ひょっとして滝があったりしない?」
 優香はかすかな期待を持って聞いてみた。「滝?」
 智也は首をかしげると、
「滝なんかないっすよ。ここには」
 伊豆には浄蓮の滝とか、有名な滝はいっぱいあるけど、ここにはないですよ。
 智也はもう一度繰り返してそう言った。

 早霧湖を優香さんにご案内したら、と提案したのは、母親の純子だった。
「裏の山の中。すぐそこだから」
 父のノートを返しに、日向の中沢家を再訪したのは、次の日曜日のことだった。土曜日に行くつもりだったのが、勤務先の病院の都合で時間が取れなくなってしまったのだ。
 日曜日は折しも、九月二十六日。あの台風から四十一年目の蒸し暑い日だった。
 昼まえに着いた優香を、こざっぱりした薄いブルーのワンピースに身を包み、前より若く見える純子と、相変わらず白いTシャツにジーンズ姿の智也が迎えてくれた。
 父の祭壇の前に広げられたテーブルには、昼食用に純子の手料理が並べてあった。
 山菜おこわ、ホウレンソウのごまあえ、野菜炒めに鳥の唐揚げ、刺身の大皿には地元産の生ワサビが添えられてある。
 優香がノートの礼を言い、祭壇の隅にそれを返し、手を合わせているあいだに、熱いはまぐりのお吸い物が運ばれてきた。
「このまえはお萩しかなかったからね」
 純子はそう言いながら、優香のあとから線香を上げた。三人でテーブルを囲む。どの料理もおいしくて、優香はおこわのお代わりをしたほどだった。
「お父さんのこと、もっといろいろ教えていただければと思って」
 食事が済み、お茶がつがれるころ、優香はなにげなく切り出した。
 父のノートをこの一週間のあいだに何回読み直したことだろう。その後父がどんなふうに生きてきたのか、やはり気になっていた。「建設関係の仕事をしていたと聞きましたけど」
 純子はふっと目を泳がせ、考えるように首をかしげていたが、やがて、ゆっくりと言葉を選びながら話しはじめた。  口元にうれしそうな笑みが浮かび、目の奥には、息子を語ったときよりはるかに得意げな光がきらきらと輝いているのだった。
「無口な人だったけれど、仕事の話はよくしてました。でも、苦労話や愚痴はいつにも聞いたことなかったねえ。穏やかで、怒ったり、大声出したりしたこと一度もなかった。感情をうまく自分でコントロールしてしまうのかなあ。わたしにはとうてい真似できない。頭のいい人だったんですね。人を責めることなど一度もなかったし、自分のやり方を他人に押しつけることもせず、いつも自然体でね。五十歳で自分から会社の役員を退いたあとは、よそに頼んでやっててもらったうちの田んぼと畑仕事を全部ひとりで、それは楽しそうにやってくれました」
 日向で純子と農業を営むようになったとき、父は、ようやく本来の自分にもどったような気がする、と澄みきった青空のような眼差しを妻の方に向けたという。
 台風のあと、父は家族の命が奪われた土地に住んだり、耕すことを嫌って、宅地も田畑も全部きれいさっぱり売り払ってしまった。
 その後、忽然と父の姿が消えた。世間では父がまとまった金を持っていたことから、アメリカに渡ったとか、精神病院に入院したとか、東京で賭博をしているとかさまざまな憶測が飛んだが、あるときまるで別人のように穏やかな人格に変貌してもどってくると、大仁に建設関係の有限会社を設立した。昭和三十八年のことである。
 純子が後年、あのときは本当はどこにいたのか問うと、天国で家族と暮らしていたなどと笑って言ったらしいが、実際は、日本中を旅したあと、ある東京の建設会社で働いて、会社創立の下地づくりをしていたのではないかと純子は言った。会社が軌道に乗った昭和四十三年に世話をする人があって、優香の母のところに持参金つきで婿入りしたが、結婚直後から母とはうまくいかなかったようだ。自分の安らぐ場所を見いだせぬまま、六年後に別れた。翌年、会社の部下の紹介で、純子と再婚し、初めて生涯の居場所を探りあてたのだった。
 この話は智也も聞いたことのないもので、ふたりは夢中で聞いていた。純子はひと通り話し終えると、急に思いだしたように、言った。
「そう、そう。溜め池の工事もやったですよ。お父さんはまだ十八歳で、初仕事みたいなものね。あのときは、日向の衆も一軒にひとりずつ出て、水の掻い出したあとの沼に入って、鯉やフナやウグイなんかを泥沼ごとシャベルで大きな竹の篭に放りこんでね。当時はまだ食糧事情がよくないころだったから、みんな喜んだって。いまは溜め池なんて言わずに、早霧湖って言うですよ。ゴルフ場があるから、道も舗装されて。昔の面影はないですけどね。ぜひ見てらっしゃいよ」

 早霧湖から帰る車の中で、智也の口は思いのほか軽かった。
「おやっさんを一人占めして申し訳けなかったですね」
 智也が健康そうな白い歯を見せて笑った。「お父さんとはどんな話をしたの」
「なんもしないっすよ」
 しなくても、父親がなにを考えているのかたいていわかったと言う。
「もっとも、こっちが何を考えてるのか、向こうには全然わかんないみたいだったけど」
 といってまたにこりと笑った
「子煩悩だったっすね。大学が北海道だから、始めのころおやっさん一日おきに携帯いれて。もちろん自分がするんじゃなくて、おふくろさんにさせて。なんの用もないのに、今どこにいるのか、元気で勉強だけしろってそれだけ。うっせえなあ、いい加減にしてくれって思って。そのうち飽きたらしく、かかってこなくなると、それもなんか淋しい気して、こっちから、いまどこどこにいるんだ、なんてかけたりして。今度は、電話代がもったいねえからやたらかけるなって」
 智也がこんなにしゃべるのは、内容が父親のことであり、しかも相手が、夢中になって聞いてくれる姉だからなのだと優香は感じていた。
「お父さんが亡くなって、淋しいでしょ。ずっといっしょに暮らしてきたんだものね」
 優香が言うと、
「ボクよりおふくろさんがまいっちゃってる。でも春には卒業してこっちにもどってくるから、なんとかなるっすよ」
「ふたり家族になっちゃったのね」
「うん。ゆうか、さん、の方は? 」
「うちは女ばかり四人」
「へええ。どんな構成? 」
「母と祖母と母の妹とわたし」
「じゃあ、にぎやかなんだ」
「まあね」
 智也はしばらく黙っていたが、
「どうして、いまごろになっておやっさんに会いたいって思ったんすか」
 言いにくそうに尋ねた。
「いや、もう少し早ければ、おやっさんに会えたのにって、そう思ったから」
 優香はうつむき加減に少し笑った。日向の純子の家を訪れるという行動に出た直接の原因は失恋だったかもしれない。が、やはり、父に会いたい強い思いが堰を切り、優香を父捜しの旅に誘ったのだ。地獄を這うような父の苦難とそれを乗り切るために父がさまよった行程を知ったいま、田原との別れで優香が味わった心の痛みなど、湖水に落ちた雨粒のように消えていった。
「いいの。お父さんからのメッセージはしっかり受け取った気がするから」
 ふたたび沈黙があった。
「お父さん、うちを出て、智也君のところに行ってよかったって、いまわたしそう思ってるの」
 優香がしんみりと言った。
 どうしてという表情の智也に、
「智也君のお母さん、ほんとに日向みたいにあったかくて。お父さん、幸せだったって思ってるのよ」
 智也は黙ってうれしそうにうなずいた。
「お父さんの心が本当に癒されて、おだやかな日を暮らすようになれるまでには、確かに二十年近くの期間が必要だったかもしれないわ。でも、それにはやはり、お父さんの心を癒せる温かな人がそばにいて、日向みたいに心を洗うような自然環境があってできたことだという気がするの」
「若いころ酒飲んで、店やの看板を取っ払って、川に投げ込んだり、溜め池の水さらいのとき、ケンカの仲裁に入ったはずの当人が先にたってケンカしてたなんてね。まったく、自分の知っている父親と、同一人物だとも思えない」
 智也は心底驚いているようだった。
 若い日にあまりに過酷な試練を受けた父にとって、母との離婚など、人生という大きな川の流れの、ほんの曲がり角にすぎなかったのかもしれない。
 なにごとが起ころうとも、それに逆らわず、流れに身をまかす人生を、父はすでに若いときに悟ってしまった。
 母は、寡黙な父の過去の苦悩や人生観を、どれほど理解していたのだろうか。
「よくハウジングやJAなんかのポスターに大家族の写真や絵があるでしょ。おじいさん、おばあさん、お父さん、お母さん、お兄さん、お姉さん、弟、妹がにこにこ幸せな笑顔をみせている。あんな完全な家族なんてあるのかしらっていつも思ってた。羨ましさも半分あってね。でも、お父さんはほんとにそんな理想的な家できっとのびのびと、なごやかに暮らしていたのね。あの台風さえなかったら、お父さんの人生はまったく違うものになっていたかもしれないわね」
 父が誘われるままに母の籍に入り、出たかと思うと、中沢家の養子になったりしたのもわかるような気がした。人生という大きな川の流れに逆らわず、求められ、必要とされるままに生き、その生をまっとうした父の、父なりの生き方が見えてきたように思えた。
「ねえ、智也君」
 優香はそのときふとあの話をしてみようと思いついた。
「むかし一度だけ、お父さんと智也君とわたしと三人で会ったことがあるのよ」
 驚いた表情で智也が優香の顔を見た。車はまがりくねった坂道の中途で一時停車した。智也は信じられないというふうに首を傾げ、「ほんとに? いつ、どこで」
 と聞いた。
「それが、夢か幻みたいで、よくわからないんだけど」
 智也は薄く笑って車を発進させた。
「丸い池があって、滝をみていたの。三人で。智也君が三歳ぐらいで、あたしが、五つ上だから八歳ごろかな。お父さんがふたりを連れて、滝のまわりを歩くの。それが不思議でね。目の前に滝の裏側が見えたりするの」
「万城の滝だ!」
 突然の、思いもかけない智也の自信に満ちた声に、優香は一瞬息の止まる思いがした。身体の細胞が飛び散るような衝撃を覚えた。「そういう滝がほんとうにあるのね」
「あるよ。それは夢でもなんでもない。ほんとうにあったことだよ。おやっさんの一番好きな滝だもの」
 一年中水の勢いが衰えないので、男性的な滝だとか、滝の裏側を見られるので、別名「裏見の滝」とも言われている。父が子供のころ、毎年春になると、親や兄弟といっしょに山菜取りに行った懐かしい場所だとよく言っていたという。
「そこは遠いの?今から行けないかしら」
 性急なと笑われそうだと思いながらも、優香は聞かずにいられなかった。 「もちろん、今から行ってみよう。中伊豆の地蔵堂だから、三十分もあれば行く」
 智也はそう言うと力強くアクセルを踏み直した。
 すぐには信じられなかった。
 あの幻影が、現実となって目のまえに現れる。ぶちぶちと音をたてて沸き立ちはじめた胸の騒ぎをもてあまし、優香は静かに目を閉じた。夢がこんなかたちで実現するなんて。
 今から幻影のお父さんに会いに行くんだ。そんな胸のときめきに身体中がぞくっと震えた。しかもあのときのように、弟もいる…
 車はそのまま一本道を下り、日向の智也の家の前を通り過ぎると、修善寺から中伊豆に通じる県道にでた。
 こんもりした山の中腹の木立の中に、観光用にこしらえた駐車場があり、売店と虫の形をした近代的なトイレがひっそりとたっている。
 道路を隔てた階段を降りていくと、滝は轟音をたててそこにあった。高さ二十メートルほどの、勇壮な漠布となって落下していた。水量は多く、高木の繁茂する高みから、すでに幅五メートルほどの水柱となって、滝つぼで壮大な水の白煙を吐いている。岩は緑の苔やシダ類におおわれ、滝つぼの周辺は、玄武岩でまるく囲まれて、まるでちいさな池のようにみえた。
「ああ、ここだわ」。
 優香はちいさく叫んだが、その声は滝の音にかきけされた。取り付けられたばかりの新しい保護柵に手を掛けながら、優香は滝と滝つぼの池に見入った。
 二十年まえ父は、父自身が幼いころ家族とよく過ごした懐かしいこの場所に、優香と智也を伴ってやってきた。岩に腰掛けながら、父はなにを考えていたのだろうか。
 智也が池の端に立ってこちらを振り向いた。ふたりのほかに人の姿はない。優香は智也に笑顔を返してから、ごつごつした岩場を、危うい足取りで池の智也のすぐそばまで降りていった。細かなしぶきが顔を打つ。滝つぼから激しく吹き出した水流は、丸池に波紋を広げたあと、岩のあいだを縫う小川となって、ゆっくりと流れ出ていった。 「滝の裏側にまわってみよう」
 玄武岩壁に沿って、滝をぐるりと一周見られるように土で固めた石の小路ができている。しぶきを浴びながら、智也のすぐ後ろを歩く。滝の真裏でふたりは立ち止まった。頭上にせりだした岩。岩の天井から吊り下がった木々の枝葉。その枝葉を激しく叩き打つ白い水の柱。透けた白い水柱を通して青い空が見えた。目のなか、鼻のなか、ところ構わず入りこむ水の煙に、ふたりは顔を見合わせて苦笑し、ふたたび残りの小路を歩きはじめた。足場は悪くなっている。絶えずしぶきの落ちる岩はつるりと滑り易く、気を抜くと転んでしまいそうだった。振り向いた智也が、優香の方にさりげなく手を差しのべた。
 大きな暖かい手だった。不意に熱い感情が湧き出て、目に涙があふれた。滝つぼに落ちる流水が、優香の体の底にまで流れこみ、激しい滝となって皮膚細胞のひとつひとつから勢いよく溢れ出ていくような気がした。
 この万城の滝は、伊豆の最高峰、万三郎岳から湧き出た清流が集まったもので、水流は地蔵堂川から大見川の本流に入り、やがて、狩野川に合流していくのだと智也は解説し、おやっさんの受け売りですけどね、とつけ加えた。
 激しい滝を落ち、岩場を静かに去っていく流れをふたりは池の縁に立ってしばらく眺めていた。
「幻のままおいた方がよかったんじゃないっすか」
 智也が流れから目を離さずにぼそっと言った。
「そんなことないわ。確かめられてほんとうによかったと思ってる。ありがとう」
 あれは幻影ではなく現実だった。自分にとって、父との唯一の思い出の場所ができたのである。
 優香はあらためて、怒り狂ったように落下していく滝を眺めた。滝つぼの底から激しい勢いで躍り出た水流が、まるで嘘のように、ゆるりとした、緩やかな流れに変わって下流に流れでていく様を目で追っていた。

 了


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