しずおか文化のページ伊豆文学賞第3回開催結果→審査委員特別推薦作品

第3回伊豆文学賞

審査委員特別推薦作品

『水の鼓動を訪ねて                    
―『伊豆の踊子』へのアプローチ―』 高田英明

   

 「伊豆は詩の国であると、世の人はいう。」――川端康成の「伊豆序説」は、この言葉で始まる。確かに“詩の国”だと僕も思う。そして僕はこれに加えて、“水の国”である、とも思っている。伊豆をとりまく三方の海、そして天城山系を分水嶺として南北に豊かに流れてゆく、河津川、狩野川。そしていまだ名も知らぬ、無数の滝や沼や小川たち。しかも、その豊かな水は、天と地と地下とに三層構造を形づくっている。天にある水は、水蒸気と雨。そして地上にある水は、河川や海。そして地下にある水は、地下水や温泉。――本当に伊豆は豊かな水の国なのだ。そしてこれらの水は、絶えずその有様を変え、天と地と地下とを循環する。人や動物や草木に、無限の恩恵を及ぼしつつ、その生命をうるおしながら。

 日本人にとって、古来から水は、その生活や精神と切っても切れない、強い絆で結ばれていた。水は、けがれをはらい、渇きを癒やし、新しい生命を育くむものとして、崇拝の対象となっていた。では,『伊豆の踊子』も、この視点から考えてみることはできないだろうか?これが、今回僕が天城路を歩いてみて、たどりついたテーマである。
 『伊豆の踊子』には、水に関する描写やエピソードが実に多い。冒頭の有名な文章の中の「雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た。」に始まり、「大粒の雨」、「雨脚が細くなって」、そして「暗いトンネルに入ると、冷たい雫がぽたぽた落ちていた。」この調子で、作品の“水”に関連する、部分をマークしていったら、文庫本が水色のマーカーの跡だらけになってしまったくらいだ。
 “踊子”たちとの旅を体験し、それを小説化するまでの、若き日の川端康成にとって、“水”とは一体どういう存在であったのだろう?それを解くためのヒントは、小説集『伊豆の旅』(中公文庫)の中の、いくつかの短編の中に隠されている。
○「僕には自分の家のない気持と旅の心とがもう沁み込んでしまっていて、行きあたりばったり我家のように落着いてしまうので、旅に伴う心のときめきなど殆どなく、従って旅行の興味も半減してしまっていることを、今度もつくづく感じて侘しいことだ。」(「南伊豆行」。大正十五年)
○「ある村に一匹の猫、一匹の犬しかいないことがあり得るかしら。すると、その猫や犬は他の猫や犬を見ないで死んでしまうことになる。」(「温泉通信」。大正十四年)
○「全くあんまり独りぼっちでいると魔に襲われます。同種類のいきものである人間の魔にです。」(「燕」。大正十四年)
 これらの文章に共通する心情は、“天涯孤独”。『伊豆と川端文学事典』(川端文学研究会編・勉誠出版)巻末の年表によると、川端康成は、十六歳の誕生日の直前に、最後にただひとり生き残った肉親である。盲目の祖父を亡くしている。現在の僕と同年齢の十五歳!――その心境は、今の僕には推察することさえできない。旅行に出かけても、帰る家も、そこで待っていてくれる家族もないため、“行きあたりばったり我家のように落着いてしまう”という気持ち。これは気楽な調子で書き散らしてはいるものの、その文章の最奥部には、底知れぬ真暗な孤独感が、奈落のように口をあけている。自分以外の誰かと語り合うことも、大笑いすることも、あるいは争うこともない暮らし。“家族”や“友人”をもつものならば誰でもが、空気のように、あるいは水のように、自然に通い合う心を持つものだが、川端少年の、そして川端青年の場合には、そういった他人との心のふれ合いは、全くといっていいほど存在しなかったのであろう。それが、次の“犬と猫”の文章からも、異様なほど強く感じられる。普通、旅行の途 中で犬や猫を見かけて、こう感じる人はまずおるまい。動物大好き人間の僕ならば、犬だろうが猫だろうがイノシシだろうが、誰とでも親しくオトモダチになってしまうだけの話だ。たとえ、手足や服が、ヨダレと抜け毛でベトベトにされるとわかってはいても。――そして究極の心境が「全くあんまり独りぼっちでいると、魔に襲われます。」という文章。魔に襲われても、救いの手を差しのべてくれる者の全くない生活。これも想像を絶するものがある。無明の闇の中で、永久に金しばりにあっているような心境なのだろうか?
 これらの作品の断片からうかがえる、若き日の川端康成というものは、普通ならば家族や友人を通して習得する、他人の愛し方も愛され方も、十分に理解しえぬまま、社会の荒波の中にいきなり放り出されてしまった、未完成な、しかし深い孤独な魂である。愛し方を知らぬという精神的ハンディ・キャップは川端青年の心の扉を固く閉ざし続けていたに違いない。ごくたまに心の扉をほんの少し開いても、対人関係の希薄さがわざわいして、相手から誤解されたり、相手の気持ちを読み誤まったりして、相当の辛酸をなめたことと思う。――言い方を変えるならば、川端青年の心からは、年を重ねるごとにうるおいが消え、日照り続きの大地のようにガチガチに乾ききっていたのではないかと思う。
 その川端青年が心から渇望していたものこそ、精神的な意味でも、現実的な意味でも、“水”であったのだ。彼がどういう経緯で、旅行先に中伊豆を選んだのか、僕は知らない。しかし後になってみると、その選択は大正解であった。豊かな水の国である伊豆は、あたかも母猪がウリ坊たちにあふれ出る乳を与えるかのように、乾燥しきった川端青年の魂に、癒やしの水、育くむ水を与えたのである。
 その具体的な存在が、湯ヶ島の湯本館である。僕自身もどちらかというと口数が少なくとりわけ初対面の人達とつき合うのが苦手な方なので、『伊豆の踊子』の中に表現された“私”の気持ちは結構よくわかるのだが、いくら旅行中に“踊子をGETしよう!”という野望(?)に燃えていたとはいえ、生来の性格というものは、そうそう変えられるものではない。僕も年中両親や友人などから「他人の気持ちのわからない奴だ。」とあきれられているが、一週間やそこらの修行で、これもそう簡単に改善できるとは思えない。したがって、『伊豆の踊子』に書き記された旅芸人と“私”との心の交流の大半は、湯本館、いや広くは湯ヶ島の人々との心の交流が、ぐっと凝縮された形で、一週間の旅の物語として表現されているのではないかと僕は思う。“小説にもならない程幼い話”を、立派な“小説”として完成させるためには、湯ヶ島温泉との出会いから八年間の熟成期間が必要だったわけである。
 川端青年が湯ヶ島で出会った水。それは天城の私雨であり、狩野川であり、温泉であり、そして湯ヶ島の地元の人々の限りない“厚意”という名の、渇ききった心には何よりも有難い。救いの“水”であった。この文章の冒頭で述べた“水の三層構造”に加え、伊豆の中でもとりわけ天城湯ヶ島は、“水の四層構造”を以て、川端青年の精神と肉体とを救ったのだと僕は思う。
 川端康成は、作品集『伊豆の旅』で、二十代後半の彼の孤独の闇を描写する一方、湯ヶ島とその周辺の土地と人々にまつわる、心の洗われるエピソードを、あたかも一筋の光明のように美しく描き出している。この闇と光との相剋・対比は、ひとつの作品の中に混然一体となって存在しているだけに、僕にとっては非常に印象深かった。
○「伊豆の温泉はたいてい知っている。山の湯としては湯ヶ島が一番いいと思う。」(「湯ヶ島温泉」。大正十四年)
○「私はよく枯草に寝ころんで竹林を眺める。日のあたる表から竹林を眺めてはだめだ。裏から見なければ。竹の葉にきらきらきらきら宿る時ほど美しい日光があろうか。竹の葉と日光との親しげな光りの戯れに心を惹かれて、 私は無我の境に落ちてしまう。(「温泉通信」。大正十四年)
○(湯ヶ島温泉の)「娘達の何気ない物の受け入れ方は、非常に面白いと思います。(「伊豆の娘」。大正十四年)
○「ここの山気は人間の顔を美しくするのか。 ――私の精神に一脈の清流がせんせんと流れ ているとすれば、これまた湯ヶ島の賜物かも しれぬ。」(『伊豆の踊子』の装幀その他」。 昭和二年)
 これから先しばらくは、私事の話になってしまって恐縮だが、僕は小学校四年生の夏に湯ヶ島の白壁荘に三泊し、「いのしし村」へ通って、村長の宇田博司さん(故人)と“イノシシ友達”になったのをきっかけに、高校一年の夏現在までに、六回湯ヶ島を訪れている。(うち、泊まったのは四回。)湯ヶ島オタクの川端康成には、まだまだ遠く及ばないが、それでもこれらの文章を読んで、「うんうん、その通り!今でも全然変わってないよ。」と大いにうなずける点は沢山ある。こう言っては失礼かもしれないけれど、湯ヶ島程度の自然美を持つ町や村は、日本中に数えきれないくらいあることだろう。しかし、川端康成にとって、また僕にとって、湯ヶ島を超える湯ヶ島は、この世に存在しないのである。――それは何故か?それは前にも述べたように、都市生活者の渇ききった心を救う、第四の“水”、いわゆる“人情”のすばらしさに起因するものである。一般的に“人情”というと、他人のプライバシーにズカズカと土足であがり込んできて、当人にとっては迷惑千万のおせっかいをやいてくれるだけの行動のようにとられがちだが、ここ天城湯ヶ島の“人情”とは、そんな世俗的な“人情”をさすのではない。それは川端康成の文章の中にある、“何気ない物の受け入れ方”という表現が、一番よく内容を物語っていると思う。湯ヶ島に暮らす人々の心は、常にニュートラルなのである。必要以上に相手の心を穿鑿したり、同情したりすることは、決してない。清冽な狩野川の流れのように、豊かにたたえられた温泉のお湯のように、ごく自然に相手の全人格を包み込む。湯ヶ島では、自然と人とが、ごくごくあたりまえのように見事に調和している。
 この夏も僕は白壁荘に泊めていただいたのだが、ある日の午後、ロビーで新聞を読んでいたら、大きなカラスアゲハが玄関から迷い込んで来て、廊下のガラス戸に行く手をさえぎられて、出るに出られなくなってしまった。正直なところ、東京生まれで東京育ちの僕は、蝶に触ったこともないのだが、ガラス戸の内でもがき苦しんでいる蝶を目のあたりにして、黙って座っていることもできず、勇気を出して戸を開けて、蝶を追い出しにかかった。ところが僕のやり方が下手くそなせいか、蝶は余計ジタバタするばかりで、蝶も僕も途方にくれてしまった。すると、ロビーのどこかでそれを見ておられたのか、大女将の晴子さんがにこにこしながら近づいて来て、「出られませんですか。」と声をかけ、静かにガラス戸を動かし始めた。そしてしばらくそのまま蝶の動きを見守っていたかと思うと、やがて蝶が落ち着いた頃合いを見計らって、まるで舞いの手でも動かすかのように、ゆっくりと右腕をひるがえして無事に蝶を中庭に追いやった。蝶はそこで何事もなかったかのように、白い百合の花弁にとまり、やがてほの暗い樹樹の間をぬってどこかへ飛び去ってしまった。晴子さんは蝶を見送ると、僕ににっこりと笑顔を見せて、これまた何事もなかったかのように、フロントの奥へ姿を消してしまわれた。――あとには、ただあっけにとられた僕だけが、重厚なロビーの梁を仰ぎつつ、その場にとり残された。
「――そうかあ…。この土地では何百年も昔から、こうやって人々は、花や虫や動物たちとあたりまえのように共存してきたんだぁ。」と僕は思った。都会では、人間が強引に造り出したエゴイズム極まる人工空間、人工建造物に、他の生物たちがどんなに迷惑して暮らしていることか。それらは人間にとってさえ、心地よい場所とはとても言い切れないというのに。
 「『伊豆の踊子』の装幀その他」の中には、「片岡鉄兵君はいつだったか、湯ヶ島には文化がないから行かないと言った。」という箇所があるが、僕にとっては“自然と人間との共存”というものこそ、最も崇高な“文化”であると思われる。人間を人間たらしめるもの、健やかに慈しみ、育くみ続けるもの。そして人間が人間として、安心して大地にしっかり根を下ろすことのできる場所、それが川端康成にとっての湯ヶ島であったのではないかと僕は思う。
 それから湯ヶ島に住む人の特色として、もう一つ、ある種の“こだわり”というものがあげられよう。これはたまたま僕の知り合いが湯ヶ島に多いというだけで、もしかすると伊豆半島全体の特色なのかもしれないが。古くは韮山の代官・江川太郎左衛門英龍に始まって、伊豆には、いわゆる“郷土の偉人”という人が非常に多い。しかもそういった人々のほとんどが“先駆者”なのだ。皆、自分の研究対象にものすごい情熱を燃やし、多くの場合、独学や試行錯誤を積み重ねて、自分自身の発想のヒラメキを、見事に実践に移してしまう。韮山のスーパー・スターを筆頭に、伊豆は他の地方に較べて、大なり小なり、そういった自分自身への“こだわり”、モノへの“こだわり”を生涯持ち続ける人達が、とびぬけて多いのではないかと思っている。ごくごくフツーの暮らしを営みながらも、学者や文人や棋士や芸術家のセミプロみたいな人が、伊豆にはワンサカいるのである。しかもそういった“こだわり”を持ち続ける人々は、自分の専門を通して、広く深く、世界や人の心を見抜く力を持っている。
 僕の身近なところで紹介するならば、前出の宇田博司さん、同じく「いのしし村」のパイオニア的調教師、斉藤恒蔵さん(斉藤さんは一九九九年七月末日を以て、同社を退職されたと聞く。)、といった人物がそれである。お二人ともほとんど独力で“イノシシ観光”という独自の分野を開拓し、イノシシのもつ特性、可能性、有効性を、楽しいショーや博物館を通じて、広く世の人々に紹介しつづけてきた。その功績は、動物行動学の面から見ても非常に大きい。
 僕は、今年の三月三十日(この日は、奇しくも斉藤さんの“イノシシ・ショー”の公開記念日に当たる。もっとも御本人は、コロッと忘れておられたが。)に、斉藤さんをお訪ねして、イノシシの飼育に関する専門的な知識から、亡き宇田村長のイノシシにまつわる愉快エピソードに至るまで、尽きることない豊富なお話を拝聴させていただいた。斉藤さんは、その日僕が抱いていた六年前の宇田村長からの贈り物のぬいぐるみイノシシ(名前は、村長にちなんで博介とつけた。)にふと目を落とすと、
「これは、珍しい!きっと村長が作らせた試作品ですよ。でもリアルによく出来てるなあ…。僕らも見たことがないですよ。」
と陽に焼けた頬をほころばせた。それから、ふだんは部外者立入禁止になっている裏方の、ショーの楽屋や自分達の控え室まで案内して下さった。そして出口のそばで、三頭の年老いたイノシシたちを紹介して下さりながら、
「普通、イノシシの寿命は長くて十五〜六年ですが、こいつは二十四歳になります。現在も記録を更新中です。」
と、得意気におっしゃった。やせて、幾分ヨボヨボした、いかにも“老齢”を感じさせるイノシシだったが、斉藤さんは続けて、
「こんなにやせているくせに、こっちのデカイ方と同じだけエサを食うんですよ。」
と半ば不思議そうにおっしゃった。隣のイノシシは、それこそ椋鳩十の童話に出てくる、山の主のような堂々たる体格で、体毛も珍らしくカールした奴だったが、時折ゲホゲホと咳き込んでいた。二頭とも屋内の、斉藤さんたち調教師の控え室の真向いのオリをあてがわれて住んでいた。そのせいか、本人(本イノシシ?)たちも、スタッフの一員のように、愛想よく僕を迎えてくれた。最後の一頭は、よく陽の当たる屋外のオリの中にしゃがみ込んでいたが、僕達を見かけると、
「何だい?斉藤さん。そっちの若いのは、新入りの飼育係かい?」
とでも問いたげな様子で、フンフン鼻を鳴らしながら近寄ってきた。斉藤さんにはそのイノシシの心の声が聞こえたのか、
「東京から来た高田君だよ。小さい時からイノシシが好きなんだそうだ。」
と平然と答えてやっていた。これには僕もたまげた。しかし、その次の斉藤さんとイノシシの行動には、更に驚かされた。斉藤さんはギクシャクと歩き続けるイノシシの背をなでながら、
「ごらんになって、すぐわかるでしょう。こいつは腰を悪くしておりましてね。」
こう言いながら、オリの間から巧みに二本の指を使って、イノシシの腰骨のあたりを、軽く、やさしく、マッサージしはじめた。するとイノシシは、次第に目を細め、鼻先を気持よさそうにつき出し、耳を寝かせたかと思うと、柔らかく積み上げられた砂の上に、いきなりゴロン!と横になってしまったのだ。まるで斉藤さんを、頭から母親だと思い込んでいるかのように。その野生の獣の、あまりにも無防備な、あまりにも相手を信頼しきったその態度に、僕は目の奥がジーンと熱くなってくるのを感じた。ふだんこれらのオリの反対側で行われている、観光客相手の、若手のスター・イノシシたちの華やかなショーよりも、僕にとってははるかに深い感動を与えてくれた、忘れえぬ一シーンであった。「いのしし村」開業準備の時代から、三十年間という長い歳月、文字通りイノシシたちと苦楽を共にし、全てのイノシシたちの生と死とを見つめ続けてきた斉藤さんにして、初めて成し遂げることができた、至上のスキンシップであると思った。
 別れ際、斉藤さんは「いのしし村」裏手の深い緑の山を望みながら、こんなことをおっしゃった。
「ここ数年、山からこの「いのしし村」に中に侵入してくるイノシシの数が、だんだん増えています。きっと山のエサがさがしにくくなっているんでしょう。森はただそこにありさえすればいい、というものではありません。高い木が生えていても、その下枝を人間が定期的に払ってやらなければ、木というものはお互いによく育ちませんし、またそうしてやらないと、イノシシや小動物が好む下草や山イモの類も生えてはこないのです。高い木の枝が茂りすぎていると、地表まで日光が届きませんから。――森を維持するのは、自然と人間なのです。」
 この言葉は、僕にとってはまさに“目からウロコ”であった。恥かしながら、僕は公園以外はロクに木の生えていないような場所で育ったので、“自然”とか“山”とかいうものは、何の手間ひまかける必要もなく、そこに永久に存在しつづけるのだと思っていた。しかしよく考えてみると、原生林ならいざ知らず、現在の日本の山林の多くは、杉やヒノキなど人工的に植林された山である。そうなるとやはり、人の手を入れずに大自然の生態系を保つというのは、現実的に困難なことになってくるのであろう。
 僕は斉藤さんのように、深い心と言葉を持つ人に生まれて初めて出会った思いがした。そうか、この心の深さが、古くから文人墨客に愛されてきたゆえんかもしれないな、とも思った。単なる“山里の人情”などという、わかったような、わからんような、アバウトな言葉で片づけてしまってはいけない。湯ヶ島を湯ヶ島たらしめてきたのは、“さりげない人と自然との調和”の他に、宇田さんや斉藤さんのような、“人やモノに対する深い心”があればこそだったのであろう。若き日の川端康成も、ほとんど西平住民と化し、湯ヶ島の人達と心の通う交流を続けてこられたのは、ここには彼の魂の孤独を救う、どこよりも清らかで深い“人情”が存在したからに違いない。住む人の心ばえの美しさ、思いやりの深さ、といった点では、ここ湯ヶ島は、今も昔も旅人の足を立ち止まらせ、深いをつかせてくれる。
 こういった地元の人々の美しい特質があったからこそ、人間的に“未熟児”の状態でこの世に放り出されてしまった川端康成は、湯ヶ島という“母胎”に再び包み込まれることによって、作家として、人間としての自己を確立しえたのであろう。「――私の精神に一脈の清流がせんせんと流れているとすれば、これまた湯ヶ島の賜物かもしれぬ。」という前掲の川端の文章は、この事実を何よりも雄弁に物語っていると僕は思う。若き日の川端康成にとって、温泉と同等、いやあるいはそれ以上に、湯ヶ島の自然と人々の心は、彼の傷つき渇ききった魂をやさしく包み込んでくれたのであろう。この体験なくして、小説『伊豆の踊子』は成立しなかったはずだ。踊子一行の「野の匂いを失わないのんきな」旅心や「こら。この子に触っておくれでないよ。生娘なんだからね。」というおふくろのセリフや、「ほんとにいい人ね。いい人はいいね。」という踊子の有名なセリフなども、川端が直接旅芸人一行から聞き取ったものではなく、湯ヶ島温泉滞在中に、彼が何らかの形で見聞きしたものを挿入したと考える方が、僕にはより自然に思われるのだが。
 また、踊子の兄の栄吉という人物像も、“自称・湯ヶ島ウォッチャー”の僕の目から見れば、これはまさに、他国者から見た湯ヶ島住民の典型的なタイプである。人なつこくて、お人よしで、善意の固まりのような、世間の白い眼よりは牧歌的風景の方がよく似合う彼は、心情的にみても湯ヶ島住民に近い。彼がなぜ「長岡温泉」の半纏を着ていたのか、これは僕にとって最後までナゾだったのだが、栄吉の性格から推察すると、たぶん長岡の地元の人に親切にしてあげたお礼に頂戴したのではないか、と勝手に思っている。また彼らの一行が連れていた「白い子犬」も、おそらくは栄吉が拾ったのではないかと僕は思う。旅の空で死んでしまった薄幸な赤ん坊の“生まれ変わり”と思って、拾って大切に育てていたのではなかろうか?そうでもなければ、いくら昔の話とはいえ、サル回しの一座でもない限り、動物を連れて旅をすることなどなかったはずである。
 更に“踊子”のキャラクターそのものについてもナゾがある。僕は中学までは男女共学の公立校にいたので、本物の十四歳の少女もあきるほど見てきたが、その僕の目から見ると、この“踊子”の行動には妙にアンバランスな所がある。結論から先に言ってしまうならば、“踊子”は一人の少女をモデルにしたとは、とても思えないのだ。
 例えば、“私”の前で恥かしがって茶托のお茶をこぼしたり、川向うの共同湯からいきなり飛び出して、無邪気に手をふってくれたり、碁盤の上で彼女の髪が“私”の胸に触れそうになると、突然赤面してとびのいたりする反面、十七、八の娘盛りのように装わされても平然とそれをやってのけているし、お座敷でのアブナイおにごっこにも参加するし、鳥屋の食べ荒した後の鳥鍋もつつくし、更には小さい時にお花見時分に東京に踊りに行ったことがある、とも語っている。彼女の言葉が本当だとすれば、薫さんの“踊子”としてのキャリアは相当長い。旅芸人が板についている方が自然である。もしかすると、こちらの方こそが『伊豆の踊子』の実像だったのではあるまいか。そして前半の、内気ではにかみ屋(これで旅芸人がつとまるのだろうか?)並びに天真爛漫の踊り子の方は、湯ヶ島時代の作者が、あちこちで見聞きした村娘のデータをもとに創作した、虚像の踊子なのではないだろうか?事実、川端康成は女性に関しては非常にマメな人だったらしく、「福田屋に美人の姉妹がいる。」と聞けば、それを実際に見に行き、そのウワサの真偽のほどをしっかり確認しているくらいだ。(「南伊豆行」)僕だったら、「いのしし村」の白イノシシとか、白壁荘裏手のカーテンつき犬小屋に住むマツゴロウ君とか、二階滝駐車場の人なつこい番犬(番犬としては、どうも失格のようだ)たちの評判を聞いて、いそいそと会いに行くようなものかもしれない。実に人それぞれ、十人十色である。
 大分寄り道をしてしまったが、話をもとにもどすことにしよう。川端康成が、そこまで心血と湯ヶ島時代の体験全てを注いで生み出した、“踊子”というキャラクターは、彼にとって一体どういう意味を持っていたのであろうか。それは“水の旅”としての天城越えを体験する“私”にとっての、“癒やし”の象徴、今風にいってみるならば、ヒーリング・インストラクター、とでも言ったらよいのだろうか。“私”の渇ききった心、他者の介入を頑固にこばみ続ける心、世間に弱者の面をさらしたくないという“孤児根性”に、“私”本人も疲れ切っていた。このままの自分でありつづけることは、自分自身にとって、あまりにも息苦しい。何とかして自分を変えたい。しかし、どうやって変えていったらよいのかわからない。その日干しレンガのように極限まで渇ききっていた心に、素直さ、瑞々しさ、ういういしさという、いわば“水”の象徴ともいえる感情を注いで、枯れかかっていた若木を復活させてくれたのが、“踊子”であった。一八九九(明治三十二)年生まれの川端康成が、はたしてヨーロッパ各地に残されているウンディーネ(オンディーヌ=水の妖精)の伝説を知っていたかどうか、僕は知らない。しかし結果的に見てみれば、踊子は“私”にとって、永遠のウンディーネ的存在となったのである。小説としてみれば、かなり古いタイプに属するこの『伊豆の踊子』が、今も老若男女を問わず、多くの読者に読み継がれ、愛され続けているという理由は、この踊子の持つ、イノセントな側面=ウンディーネ効果という、“自己浄化作用”によるものだと僕は考えている。
 読者は“私”の存在を借りて、踊子たちの一行と終始行動を共にしながら、“水の国”である天城路を越える。その旅路のひとつひとつのシーンの中で、踊子によって次第にうるおされ、浄められてゆく“私”の心を、読者は自分自身のものと重ね合わせて感じ取る。単なる青年と少女の淡い初恋物語では、こうも長い歳月、読者の心をとらえつづけることはできまい。
 伊豆という、天と地と地下とに豊かな水の三層構造を形成する土地が、この小説の舞台装置であるとすれば、そのヒロインである踊子は、まさにそれらの水を司る水の女神であり、水の妖精である。一見、ちぐはぐに描かれた踊子のキャラクターは、背景に“水”を配置することによって、見事に生き生きと呼吸しはじめる。踊子と水との二重の浄化作用が、この作品を単なる青春小説ではなく、芸術的香気の高い、懐の深い作品として、昇華させてきたのであろう。
 僕はこの夏、天城会館に隣接した「夕鶴記念館」で、「伊豆の踊子を描く・飯田達夫絵画特別展」(川端康成生誕百年祭記念)という展覧会を見てきたが、画家の飯田氏もやはり僕と同様、“踊子と水”をテーマに印象的な作品を描いておられた。もし僕に絵心があったら、必ず描いておきたいシーンは、何と言っても、水の妖精ウンディーネの象徴ともいえる「共同湯」でのイノセントな裸体のシーン。それからもう一枚は、天城山中で見つけた「泉」のシーンである。飯田氏も小説の内容から離れて、幻想的な「泉」の情景を描き出しておられたのには、嬉しくもあり、ちょっとびっくりもした。
 この夏の天城は、例年にも増して雨が多かったそうだが、僕が訪れた時も、やはり天城峠で大粒の雨に見舞われた。しかし天から降る雨は、地上の生き物たちの生命を育くみ、やがて豊かな地下水となって、再び彼らの生活をうるおす。事実、浄蓮の滝や二階滝の水勢は、これまでに見たこともないくらい見事なものであったし、山裾の湧水も、まるで小さな噴水のように、元気よく水音をあげていた。僕はそんな情景を目にしたのは、生まれて初めてだったので、思わずその場にしゃがみ込んで、両手を泉の中に浸してみた。――すると、どうだろう。水の勢いが、ドッドッドッドッ……と僕の手のひらを押し返してくる。何と心地よい抵抗感だろう。それに、脳天まで泌み透るような、冷たい透明感。このままずっと目を閉じていると、僕も両手の指先から、次第に全身が“水”に変化していってしまいそうな気がする。ふと、そんな幻想も頭をよぎる。
 ――ああ、そうだ。昔の修験者たちが“修行”で目ざしたものも、もしかすると、罪やけがれに満ちた肉体から魂を離脱させ、水と同化させることであったのかもしれない。そして清らかな水の中から、再びこの世に魂を誕生させ、新しい生命として生まれ変わることが、究極の目的であったのかもしれない。“お滝行”とか“水垢離”とかよばれるものは、そういった意味での浄化と新生を意味しているのかもしれないな、と思った。
――そうか、生まれたての水は、生きているんだ。生きて、こんなにも元気よく鼓動をしているのだ。地球の奥深くから、新生と誕生のエネルギーをもらって、こんこんと湧き出してくる若水たち。それは、疲れた旅人の心身や動植物の生命に、どんなにかうるおいと勇気とを与えつづけてきたことだろう。湯ヶ島時代の川端康成も、もしかすると僕と同じように、湧き出でる泉に手を浸して、水の鼓動に陶酔していたことがあるのかもしれない。
 『伊豆の踊子』の天城越えも終りに近づく頃、木蔭の岩の間から湧き出している泉を描いた場面がある。小説の中では、とりたてて際立った描写はされていないが、泉の水を飲むという行為は、言ってみれば生まれたての“水”のパワーを、自分自身の体内にとりこむということである。水のパワーは、精神的・肉体的な渇きを癒やし、生物に新しい気力と体力とを与えてくれる。それは、浄化とともに、新しい生命の誕生を意味しているともいえよう。
 浄化と新生――この二つこそ、古来から日本人が、祈りの中で最も多く神に願いつづけてきた事柄ではなかったか。この小説中の“私”も、ラストシーンでは「どんなに親切にされてもそれを大変自然に受け入れられるような美しい空虚な気持」へと“生まれ変わって”いるのである。『伊豆の踊子』の物語の奥には、水を通じて、“浄化”と“新生”願望という、太古からの日本人の祈りが秘められていたのであった。
 ――やはり、伊豆は“詩の国”であるとともに、“水の国”である。そして永遠にありつづけてほしい、と僕は思う。

   参考文献
1 川端康成『伊豆の旅』中公文庫 中央公論社 一九九六年(一九八一年初版)
2 川端文学研究会編『伊豆と川端文学事典』勉誠出版 一九九九年
3 宇田博司『いのしし武者――白壁荘夜話――』未来社 一九九六年
4 鈴木邦彦『文士たちの伊豆漂泊』静岡新聞社 一九九八年
5 『川端康成生誕一〇〇年祭記念 伊豆の踊子を描く 飯田達夫絵画特別展』画集
  川端康成生誕一〇〇年祭記念事業実行委員会 一九九九年
6 岡野玲子(原作=夢枕獏)『陰陽師』第8巻大陰 スコラ 一九九八年

 以上の書籍のうち、1〜4までは、白壁荘大女将・宇田晴子さんと御当主・宇田さんから頂戴したものです。日頃からの御厚意を含め、心から御礼申し上げます。また、斉藤恒蔵さんと「いのしし村」調教師・スタッフの皆様方にも、この場をお借りして厚く御礼申し上げます。(あの、ついでにイノシシ君たちにも……。)


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