しずおか文化のページ伊豆文学賞第3回開催結果→最優秀賞

第3回伊豆文学賞

最優秀賞受賞作品

『軍曹とダイアナ』 会田晃司

 真新しい箱からは、熱にあおられたのか、木のいいにおいがした。
 車は、急な坂道を、乱暴に登ぼって行く。つぎつぎに現われるカーブに、僕は、膝の上の箱を倒すまいと、両腕に力を込めた。その時、右肘が隣の若住職の袈裟に触れた。パリパリと音がしそうなほど、きれいにアイロンがかけられている。彼が身をよじった拍子に、裾から携帯電話が落ちた。アンテナに、大きな飛行機の付いたストラップがかけられている。彼は照れ臭そうに端正な顔をゆがめ、ラジコン飛行機が趣味であることを、小さな声で僕に語った。
 大家さんはせわしなくハンドルを回しながら、助手席に座る、市の福祉課の職員の下山さんに、胃かいようを温泉療法で治した経緯を説明している。火葬場を出たときから続いている熱弁だが、下山さんはほとんど何も聞いていないようだった。

 きれいな霊園だった。
 何よりも、景色がすばらしい。十国峠のすぐとなりにあたるそこからは、富士山も、駿河湾も見えた。しかし、何より目を引いたのは初島だった。手を延ばせば届きそうなくらい近くに見える。夏の海は青く、強い日差しを反射して、大きくうねって見えた。

 ラジコンマニアの若住職が読経するかたわらで、下山さんが鉄の扉のカギを開け、軍曹の骨壷はいくつもの先客の隣に並べられた。再びカギをかけられ、ぼくらは順番に線香を上げた。それですべての儀式が終わった。
 しかし、僕と軍曹の約束は残っていた。

 僕が熱海を移転先に選んだのは、いくつかの条件を機械的に組み合わせた結果に過ぎない。東京から離れたかったが、あまり遠くには行きなくなかった。景色が良くて、出来れば海のそばが良かった。そして、週に一度平塚のカウンセラーに通うのに、なるべく便利なところである必要があった。それらの条件の交錯した点として、プリンターは、熱海の物件を吐き出した。僕はほとんど考えることなく、印鑑を取り出していた。

 熱海に部屋を借りた日から、僕は歩いていた。歩き始めたのは、他にすることがなかったからだ。でも、ただ歩き続けているうちに、この街がすっかり好きになった。歩いていると、実にいろいろなにおいがした。猥雑な音に溢れていた。ここは間違いなく立体的な街だった。僕はここを歩いていると、いつもとらわれていた、平面的なイメージから逃れることが出来た。テレビの画面や、雑誌の写真の中にいるのではなく、どんなものにも触れることが出来るような気になれた。僕はほんの1週間で、熱海の街のありとあらゆる道を、ほとんど歩きつくしただろう。もしも歩いた道を地図の上で塗りつぶしていたら、僕の地図は真っ黒になったに違いない。坂を下り、海を眺め、また坂を上った。温泉が吹き出す湯気にあたり、美容院で日本髪を結う芸者さんに見とれていた。驚くほど狭い路地や唐突に顔を出す川は、いつまで歩いても僕を飽きさせることがなかった。

 その日も僕は歩いていた。夏の終わりで、日が落ちた後も、アスファルトはゆだるように熱かった。その夜の熱海では、ばからしいほどにぎやかな祭が行われていた。「夏の熱海はたいていどこかしらで祭があるが、今夜は特別だ」、バス停で老人が話していた。その通りだった。普段は車が連なる国道を、たくさんの人間が踊りながら歩くのだ。ただそれだけなのだが、これが延々と続く。この祭のにぎやかさと来たら、今まで僕が見たこともない類のものだった。何しろ、見ている人間よりも、踊っている人間の方が圧倒的に多いところだ。みな酒が入っているのか、実に楽しそうに踊っている。それはそれでいいのだが、その夜は、もう少し静岡に過ごしたかった。僕は音楽と光から離れ、次々と路地を曲がって行った。

 そして、僕は「たつみ」に入った。
 その焼鳥屋を選んだのは、単に客がいなかったからだ。熱海の店はどこも小さく、どこも混んでいた。冷たいビールが飲めて、誰からも話しかけられそうもない店を探していた僕には、「たつみ」は願ってもない選択のはずだった。しかし、入り口から死角になっていたカウンターの隅に、一人だけ先客がいた。それが軍曹だった。軍曹は、スズメ焼きを、実にうまそうに、丁寧に食べていた。僕がビールを頼み、突き出しのなめこおろしを食べ終えるまで、一本の骨だけをじっくりとしゃぶっていたようだ。やがて、その骨からどんな小さな肉片をも無くしてしまうと、蛍光燈に透かしてみて、満足げに笑った。そして、そのつま楊枝のような骨を僕にかざして見せ、「どうだ」といわんばかりの表情をした。僕は仕方なく笑いかけた。奇妙な人だ、そう思った。僕はなるべく関わりにならないために、それ以降そちらの方向を見ないようにした。軍曹は、時折コップの酒に口をつける以外、ずっとスズメの骨をしゃぶっていただ。まるで、スズメの骨で、標本でも造ろうとするかのような熱中ぶりだった。僕は見まいとすればするほど、軍曹のことが気になった。かなりの老人のようにもみえたし、単に身なりのだらしない中年のようにもみえた。
 そう軍曹という名だ。それは、その時に、いや、店に入った瞬間に思いついた。大昔のテレビドラマ「コンバット」に出てくるサンダース軍曹に、ほんの少し似ていたのだ。どこが似ていたのか、今となってはよく分からない。角張ったあごと、そこにまばらに生えたヒゲ、そんなところだ。いずれにしても、その晩僕は、心の中でその奇妙な老人のことを、軍曹と呼んでいた。

   熱海という街は、山の斜面に張り付いている。海のすぐ近くに大きな旅館や飲食店が集中している。山を登るにしたがって、街は少しずつ静かになるのだ。もしも海沿いの繁華街が消えてなくなったら、山に貼り付いている住宅街は、きっとそのまま滑り落ちて、波に飲まれてしまうだろう。そんな気がする。僕のアパートがあるのは、その山の斜面を、中腹くらいまで登ったところだ。周囲には、古い木造の家が軒を連ねている。アパートは、その中でもひときわ古びた、木造の二階建てだ。僕の部屋はその一階にあった。アパートの前には、狭い中庭があり、誰が使うのか、物干しがあった。僕は朝起きて、歯を磨きながら、いつもその物干しを見ていた。目を細めてみると、それは背景の海と重なり、巨大な海蛇のようにも見えた。その日もそうした。ところが、僕の視界に、とんでもないものが飛び込んできた。それは物干しから垂れ下がり、醜い顔をこちらに向けていた。はじめ僕は、誰かが上げていた凧が、偶然落ちてきて竿に引っかかったのだと思った。だが、よく見ると、逆さ吊りされた人の顔だ。髪の毛と思われる濡れた金色の糸からは、時折水滴が落ちている。グロテスクな青緑をした瞳と不自然なほど尖った鼻、そして、鮮やかな赤い唇は、なぜかはっきりとした円を描いている。その上、ちょうど物干し竿の上にこんもりと二つの山形を描くように、丸い乳房があった。そこだけは、何か詰め物がしてあるのか、質感がある。他の部分は、まるで空気が抜かれた浮き輪のようだ。実物を見るのははじめてだったが、僕にはそれが何なのかすぐにわかった。そう、ダッチワイフだ。僕は、その裏側がどうなっているのか、回り込んで覗き込みたい衝動に駆られた。ここからでは、不自然に長い足の裏側しか見ることが出来ない。しかし、それを試みる前に、当然の疑問が浮かんできた。いったい誰がこんなものをここに干しているのだ。移り住んで1週間ほど経つが、僕は、誰一人アパートの他の住人に会ったことはない。時折人の気配を感じることがあったが、特に注意を引かれることもなかった。とその時、僕の部屋の2つ隣の部屋のベランダ側のサッシが開いた。そこから出てきた人物を見て、僕はほんとうに驚いた。軍曹だったのだ。

   「たつみ」で会ったのは、その前の晩のことだった。
 軍曹は前夜のことを覚えているのかいないのか、僕にニコッと笑いかけると、サンダルを履いて、中庭に歩き出てきた。子供が着るような珍妙なイラストの描かれたTシャツと、だらしがない短パン姿だ。軍曹が立った姿をはじめて見たが、その上背は、せいぜい小学校の高学年程度しかなかっただろう。非常に小さかった。軍曹はゆっくりと延びをすると、物干しの方に近寄っていった。そして、ダッチワイフの頭部の金色の糸を片手でしぼり、ぼたぼたと水滴を垂らした。そうしながら、驚く僕の方を見て、こう言った。
「ダイアナ」
 それがはじめて聞く軍曹の声だった。風体の汚らしさとは似てもにつかない、澄んでいて、高い声だった。
「えっ?」。僕は声に出さずに、表情だけで、そう聞いた。軍曹が何のことを言ったのか、わからなかったのだ。
「ダイアナ。名前だよ、この子の」
 そう言いながら、もう一方の手で、ダッチワイフを指さした。
「ダイアナ、ですか」
 僕は意味もなくそうつぶやいた。軍曹は、人懐こい笑顔を僕に向け、短い手を精一杯のばしてもう一度延びをした。僕の方を振り返ると、こちらに向かって大股に3歩すすみ、僕の部屋の縁側に腰掛けた。
「タバコは?」そう聞いた。
「いえ、吸いません」と僕。
「そうじゃなくて、持ってる?」
 僕は首を振った。軍曹はほんの少し恥ずかしそうな笑顔を僕の方に向けると、ポケットからシワシワになったタバコを取り出した。何だ持っているじゃないか、普通なら、そう文句もいいたくなるような状況だ。しかし、軍曹の表情やしぐさは、どこかユーモラスなのだ。軍曹は、折れ曲がったタバコを何度も何度も指で延ばし、ようやく火をつけると、じつにおいしそうに一口吸い込んだ。

   それから僕と軍曹は、のんびりと海を眺めながら、かなりの時間話をしていた。それは、僕にとって、熱海に来てはじめての、人との会話だった。何を話したのか、あまりよく覚えていない。というよりも、会話と呼べるほどの内容はなかった。第一、軍曹はあまりしゃべらない。しかし、僕は軍曹の、とぎれがちな言葉のリズムや、声を出すときのユーモラスな唇の動きを楽しんだ。軍曹も僕も、お互いに何をしているかなど、たいして関心がなかった。とぎれとぎれに繋がる話題は、もっぱら、熱海の、特にこのアパートからの景色についてだった。軍曹は僕に、熱海の景色がどれほど素晴らしいか、講義をした。僕はただ頷いているだけだった。この老人と話していると、なぜか楽しかった。2本目のタバコをつけた時、軍曹が唐突にこう聞いた。
「にいちゃん、下田に行ったことあるか?」
 僕は首を振った。本当は行ったことがあるかもしれないが、はっきり思い出せなかったのだ。僕にとってはその程度の場所だった。軍曹は僕が否定したことが満足そうだった。「下田はいいぞ、すごいぞ。海の色も、空の色も違う」軍曹はそう言って目を細めた。
「熱海は伊豆半島の根っこにあるだろ?ここは入口なんだ」
「入口?」
「そう、天国の、だな。伊豆は南にいくほどすごいんだ。オレが思うに、下田はもう天国だな。オレの人生設計はさ、あれよ。だんだん南に下がって行くんだ。今熱海だ。次は稲取あたりに引っ越して、そんで、死ぬ時ゃ、下田だな。オレが死んだらさ、骨は石廊崎の突先から、海に投げてもらいてぇな。そしたら、オレは骨んなって、ずっと南に行かれる」
 軍曹はそう言って笑った。欠けた歯の間から、タバコの煙がたくさん漏れだしてきた。僕も笑った。

   軍曹はタバコを庭に無造作に捨てると、サンダルでその火を消しながら立ち上がった。さっと手を挙げ、とびきりの笑顔を僕にむけた。何かつぶやいたようだったが、ちょうど通りかかった伊豆急の電車の音で、僕には聞き取れなかった。軍曹は、ダイアナの髪の毛を触り、乾き具合を確認して、自分の部屋へ消えた。僕は不思議な気分のまま、しばらく海を眺めていた。軍曹が言うように、この景色は「とびきり」だ。せり出した山の間に広がる海。 「いつまでもぼんやりしてられる街だ。景色を見ているだけで、飽きないんだからな」
 その通りだった。そして、その景色の中に、物干し竿からみにくく垂れ下がったダッチワイフは、あった。
「ダイアナ」僕は小さく声に出してつぶやいた。

   その日の夜、僕は部屋で本を読んでいた。
 部屋にはテレビもなかったし、他にすることはなかった。眠くなるまで本を読み、目が覚めたら歩く、それが僕の毎日だった。その時、部屋をノックする音がした。軍曹だった。「やろうよ」手には一升瓶があった。
 僕がコップをとりだしている間に、軍曹は僕の本を取り上げてみていた。
「ずいぶんむずかしい本を読んでるな。たいしたもんだ」
 軍曹はそう言って、文庫本の『竜馬が行く』を取り上げた。目を細め、サラサラとページをめくっている。ここに来るとき、カウンセラーの先生に、極力本を読まないよう言われていた。そこで、すでに何回も読んでいる肩のこらない小説だけを持ってきたのだ。『竜馬が行く』の他には、『モンテクリスト伯』とヒギンズの『鷲は舞い降りた』だけだった。僕と軍曹は、あまり話すこともなく、静かに酒を飲んだ。僕は部屋の真ん中にあぐらをかき、軍曹は縁側に足を出して。それでも僕は快適な気持ちだった。なぜか軍曹といると安心できた。軍曹は、ずっと夜の海を見ていた。時折熱海港にフェリーが入ってくると、軍曹は嬉しそうに僕の方を見た。
「来た来た」そう言いながら茶碗を置き、手を額にかざして眺めていた。

   次の晩も、軍曹が来て、同じようにして過ごした。
 そして、またその次の晩も、軍曹が訪ねてきた。しかし、今度は部屋には入ろうとはしなかった。
「ちょっと出かけないか」
 部屋のドアにもたれて、そう言った。僕は意外な言葉に少し驚いて、聞き返そうとした。しかし、軍曹はそのまま歩き出してしまった。僕は仕方なしに、軍曹の後をついていった。軍曹はアパートの裏手に回り、一枚のビニールシートをまくり上げた。そこには古いオートバイがあった。
「ドライブしようぜ。男同士だけどさ」
 軍曹はそう言って、バイクのシートを叩いた。道路まで引いていく時も、どうもタイヤが怪しく上下する。このバイクで二人乗りの「ドライブ」しようというのだろうか。僕は少し恐くなった。軍曹は、そんな僕の不安などにまるで気がついていないかのように、ニコニコと笑っている。
「すごい場所があるんだ。秘密の場所。とっておきだよ」
 道路まで出ると、軍曹はバイクにまたがった。
「どうしても見せたかったんだ」。
 そう言うと、軍曹はリアシートをパンパンと後ろ手で叩いた。乗って、ということだろう。僕は観念した。少し好奇心もあったし、軍曹の人の良さそうな笑顔に、拒否することは出来なかった。

   エンジンをかけるのに、数分かかったような気がした。やがてバイクはカタカタと前進しはじめた。僕は軍曹の腰にしがみついた。たしかにまわりから見たら、異様な光景だったに違いない。それに、これはきっと道路交通法に違反している。僕も軍曹もヘルメットをかぶっていなかったし、このバイクだって、二人乗りをしていいものかどうかあやしかった。しかし、例え警察官に見つかっても、実質上問題にならないだろうと思えるようなスピードしか、このバイクは出なかった。それはバイクの古さや、軍曹の運転の問題ではなく、坂があまりに急だったからだ。熱海の道はどこもたいてい坂道だ。このアパートがあるのも、海岸からはかなり上がったところだ。軍曹は、そこからさらに坂道を上っていった。それは、まるで僕と軍曹の二人で、このバイクを運んでいるような作業だった。軍曹の右手は、骨折しそうな形になるまで、スロットルをまわしている。バイクもそれに応えるように、不気味なうねりのある音を立ててはいる。しかし、そのわりには、老人が走っているようにしか進まない。とうとう軍曹は、両足で勢いよく地面を蹴り上げはじめた。それは、幼児がカートにまたがって遊んでいるような格好だった。そのおかげで少しスピードを増したようだった。軍曹があまり熱心なので、仕方なく僕も付き合った。二人揃って両足を蹴り上げている様は、もしも誰かが見たら、おかしさを通り越して不気味だっただろう。それでも軍曹は楽しそうだった。声を上げて笑っているのが分かった。そうしてバイクはいくつものカーブを曲がり、どんどん坂を上っていった。僕は息を荒くしながらも時折後ろを振り返った。かなり高く上がってきたのだろう、いつもの海がかなり遠ざかったように感じた。それにつれて街の光がまとまって見えるようになり、いつにもまして美しかった。意識が遠のくほどの運動の果てに、バイクはようやく止まった。目の前には、僕の背の倍ほどもある生け垣があった。

   さすがの軍曹も息が上がっていた。それでも、バイクのスタンドを起こすと、ひざに手をあてて息を整える僕の肩を叩いた。
「さぁ、着いたぜ」
 僕は軍曹の後をついて歩いた。風が心地よかった。しばらく歩いて立ち止まった軍曹が、生け垣の下の方を指さしていた。そこには、ポッカリと穴があいている。その先にあるものが何だか、僕には想像もできなかったが、無断で入ることが許されていないものであることはわかった。軍曹に続いて、僕も四つん這いになってその穴をくぐった。中はきれいな芝生だった。はじめ僕は、そこがゴルフ場だと思った。しかし、ところどころに植え込みがあり、その向こうには、何棟かの立派な建物が点在しているのが見えた。電灯はなかったが、月明かりで足元がよく見えた。軍曹は慣れた足取りで、どんどん進んでいく。いくつかの植え込みを回り込んだ時、突然目の前の眺望が開けた。見慣れた街と海が、かなり小さくなって下の方にある。相当高いところなのだ。芝の急な斜面をしばらく歩くと、階段が現れた。中程まで上がったところで、軍曹が振り返った。目的地に着いたようだ。軍曹は階段に腰を下ろした。その脇にはめ込まれた石には、「ムア広場」と深く刻まれていた。それを見て、ようやく僕はこの場所がどこかわかった。来たことはなかったが、その名前は何度も耳にしていた。熱海の山の上にある、とても大きな美術館だ。軍曹は生け垣の穴から、とうに閉館している美術館に忍び込んだのだ。僕は美術に詳しいわけではない。しかし、ヘンリー・ムーアが誰かは、おおよそ知っている。目線を上げると、月明かりに照らされて、奇妙な姿の一組の男女が、胸を張って腰掛けている彫刻が見えた。これがきっと、ヘンリー・ムーアの作品というわけだろう。僕がそれらの像を眺めていると、軍曹が高い声で解説をしてくれた。
「あのヘンリー・ムーアは3億だ」
 まるで自分のことのように、得意げな笑顔だった。僕も笑った。僕と軍曹は、その男女の像のところに行って、彼らの横に腰掛けた。軍曹が持ってきたカップの日本酒を空け、小さく乾杯をした。景色を眺めてみて、軍曹が僕をここに連れて来たがったわけがわかった。ものすごいのだ。誰もいない夜の美術館から、これほど圧倒的な景色を見たことがある人間など、きっとそういないに違いない。僕はカップの酒を飲むのも忘れ、しばらくその光景を眺めていた。まるで、自分と軍曹を含めた全景を、空から別の自分が見ているような、実に不思議な気分だった。彫刻の二人はもちろん、軍曹も何もしゃべることはない。ただ、ニコニコと景色を眺めている。軍曹にとって、街は花と同じだった。美しさを愛でるために、軍曹にとっての街はあった。そしてこの花は、実に申し分がないほど、美しかった。

   軍曹の死は突然だった。軍曹は、夏の週末だけ、海の際の駐車場で、車の誘導をしていた。僕を美術館に連れていった翌日厳しい残暑の中の作業で、軍曹は倒れた。そのまま救急車で運ばれたが、3時間後に息を引き取ったのだ。なんというあっけない死。きっと何を言い残すのでもなく、ポケットからしわだらけのタバコを取り出す代わりに、呼吸をするのをやめてしまったのだ。

 僕がそれを知ったのは、その夜だった。アパートに戻った時、軍曹の部屋のドアが開いていた。中を覗いた僕は、そこに大家さんが座っているのを見た。何事だろうと思っていると、大家さんの方から口を開いた。
「死んでしまったんだ、神村さん」
「カミムラさん?」
「あんた知らんか、この部屋に住んでた人。もう長いこといた人で、このアパートの主みたいな人だった」
 僕はその時、はじめて軍曹がカミムラという姓であることを知った。妙な話だが、軍曹が死んでしまったことよりも、彼がカミムラという名前であったことの方が、僕には驚きだった。僕は部屋に入った。軍曹の風体からは想像もつかないほど、部屋はきれいに整理されていた。というよりも、決定的にモノが少なかったのだ。一組の布団にちゃぶ台、ほんの少しの食器類、それに箱ひとつだけの衣類、ほとんどそれだけしかなかった。軍曹は、テレビすら持っていなかったのだ。僕は窓を開けた。僕の部屋から見えるのと同じ海が、そこからは見えた。

 大家さんは、僕に軍曹のことを少しだけ教えてくれた。カミムラナルミチというのが軍曹の本名で、信州の山奥の生まれだという。若い頃は土木作業員として、全国を渡り歩いていたそうだ。熱海の近くの大きな工事をしていた時、この街が気に入り、工事が終わってからこのアパートに腰を落ち着けることになった。以来、多少の蓄えと、不定期な仕事をしながら、のんびりと老後を送っていた。大家さんは、軍曹の部屋のちゃぶ台の上に、簡単な祭壇もどきを作って、そこに線香を上げていた。軍曹の遺体は病院にあって、明日そのまま火葬されるという。
「まぁ、ささやかなお通夜だね」
 傍らには一升瓶と、飲みかけの冷や酒の入った茶碗があった。
「縁者の探しようもないんだ。市の方でも少し当たってみるって言ってたけど、ね」
 僕は大家さんの横に腰掛け、黙って線香を上げた。大家さんは、もう一つの湯飲みに、酒をそそいでくれた。線香の向こうには、熱海の海が見えた。僕にはそれが、軍曹の位牌のように感じた。

「どうせ何もないから」
 そう言って僕に部屋の鍵を預け、大家さんは自宅に帰っていった。夏祭りの反省会がある、照れくさそうにそう言っていた。僕は明日の納骨式に出席することを告げ、大家さんを見送った。部屋に戻り、もう一本の線香に火をつけ、そして酒をもう一杯飲んだ。それから、僕は軍曹が最後まで気にかけていたに違いない「遺品」を、衣類の入れられた箱の底から取り出した。あの日、物干しにつるされていたのを見て以来、2度目の対面だった。驚いたことに、ダイアナは、大昔に売られていたであろうビニールの袋に、きちんと折り畳んでしまわれていた。普段の軍曹から、およそ想像も着かない几帳面さだ。そのビニールがどれだけ古いものかは、折れ曲がった場所の黄ばみ具合と、中に入っていた紙に書かれた宣伝文句のフォントで、想像が着いた。「人毛付きアナルも使える本格派」、紙には太字でそうあった。軍曹は、きっとダイアナと一緒に、日本中を回っていたに違いない。僕はダイアナを衣装箱から取り出した。後の荷物は、明日の午後に、市の清掃局が引き上げて行く。僕はもう一杯酒をつぎ、きっと軍曹がいつもそうしていたように、窓辺に座って海を見た。軍曹は結婚をしたことがなかっただろう。そんな気がする。このダイアナと共に、ひっそりとここに暮らしていたのだ。それでも軍曹は幸せそうだった。おそらくその理由の半分以上は、僕の目の前に広がる、この景色だ。
「でもここはまだ入り口なんだ」
 そうつぶやく軍曹の声がした。
「そうだね軍曹。ここはまだ、ほんの入り口だよ」
 僕は小さく声を出してそう言った。そして、熱海の街と夜の海に、茶碗を掲げた。軍曹の死を悲しむほど、僕は軍曹を知らなかった。だが、ほんの数日関わっただけのこの人物のために、僕にはやらなければならない事があった。

 軍曹の納骨が行われた翌朝、僕はダイアナと共にアパートを出た。紙袋に詰められた「彼女」が、バスや電車の中で突然顔を出したりしないよう、夕べ念入りに梱包した。温泉に泊まる客が次々に吐き出されてくる改札を、僕とダイアナは逆行して行った。電車を待つ間、僕は軍曹の代わりに少しでも熱海の空気を吸っていようと、ホームをあちこち歩き回った。

   ホームに入ってきた電車は、僕の勝手な想像と違っていた。古い日本映画で、北陸の海岸線を淋しく走っているような電車に乗るものだとばかり思い込んでいた僕は、あまりに近代的で、きれいな電車に、ちょっと出鼻をくじかれた気分だった。イスも向かい合わせで直角に曲がった堅いものではなく、海に向かって据え付けられた、二人掛けのソファだった。つまり、下田に着くまで、ずっと海を見ていられるというわけだ。軍曹と、いや、ダイアナとの旅に、これほどふさわしい電車はない。僕はそこに腰掛け、広い窓枠に、売店で買ってきたアジ寿司と缶ビールを置いた。

   下田までの二時間足らずの間、僕はずっと海を見ていた。もしも軍曹がこの電車に乗っていたら、おそらくそうしていただろうように、ニコニコと笑いながら。とてもいい天気で、海は輝いていた。波は、ところどころに配置された岩にぶつかることで、ようやくその存在を主張する程度の、穏やかな海だった。駅を通過する度に、何組かの温泉客が降りた。乗ってくる人はほとんどいない。駅を降り立った人々は、きっとみなこの海を眺めるために来たに違いない。そして、軍曹と同じように、この景色を「とびきり」なものだと思うのだ。そんな瞬間があるだけでも、きっとこの世は生き残るに値する、軍曹はそう感じていたのだろう。何の脈絡ものなく、僕はそう思った。軍曹は幸せだったのだ。そう思った瞬間、僕はあやうく涙が出そうになった。僕は缶ビールのプルトップを引き、アジ寿司の包装を解いた。一昨日の晩から、もう数え切れないほどそうしているように、缶ビールを海に向かって小さく掲げ、軍曹に乾杯をした。電車の規則的な震動を繰り返し、僕とダイアナを、「天国」に近づけていった。

   下田の駅に降り立ったとき、それまでの気温よりも、数度高くなっているような気がした。とにかく暑いのだ。日差しの強さも、僕が知っているものと種類が違った。普通は、飛行機で海外に行ったときに、こうした変化を体感するに違いない。でも、伊豆では、いくつかトンネルを抜けただけで、同じ事が起こる。僕は改札口の駅員さんに切符を渡しながら、石廊崎行きのバス停を尋ねた。駅員さんが口を開く前に、僕の後ろに並んでいた老婆の差し出す腕が、すでに運転手の乗っているバスを示していた。僕は老婆と駅員さんに頭を下げ、小走りにバスに駆け寄った。すでにエンジンがかけられていたからだ。あまり熱心に景色を見ていなかったが、何度も急カーブを切り、幾つもの停留所を過ぎた。石廊崎が駅のすぐそばと思っていた僕には、少し意外だった。でも、その方がいいのだ。軍曹が考えていたとおりだとしたら、南に行けば行くほど、「天国」は近づく。

   伊豆急の電車といい、乗り継いだこのバスといい、まるでトーナメントを勝ち抜いていくように、次々と人が減っていった。終点の石廊崎、つまり栄えある決勝進出者は、若い女性3人組と、僕だけだった。案内板の前で写真を撮る彼女たちをよそに、僕はすぐに歩き始めた。大きな植物園を迂回し、汗を垂らしながら、必死に歩いた。もう距離は気にならなかった。灯台が見えたときには、すでにTシャツはびっしょりだった。しかし、そこに広がる光景は、まさに圧倒的だった。宇宙に向かって突き立てられた針の先にいるような、すざまじいものなのだ。岬の最先端には、小さな祠があった。僕はその階段に腰掛け、紙袋からダイアナを取り出した。ビニール袋から取り出す時に、バリバリと大きな音がした。ダイアナの空気口は、首の後ろにあった。僕は、大きく息を吸うと、懸命にダイアナに空気を送り込んだ。折れ曲がっていた手が少しずつ延び、頭が起きてきた。それらが視界を妨げるので、僕はダイアナの堅い金髪を、何度もかき上げなければならなかった。それでも、意識をもうろうとさせながら、一生懸命吹き続けた。ダイアナがすっかり膨らむまでに、沖合の海を2隻のタンカーと1隻の漁船が行き過ぎた。
  「キャーッ」という叫び声がした。
 先ほどの3人組の女の子が、ダイアナを見つけたのだ。無理もない。こんな断崖絶壁の祠で、ダッチワイフをくわえた男を見たら、誰だって逃げ出すだろう。
「すみません」
 僕は曖昧に笑いながら、後ずさる彼女たちの脇を、ダイアナを抱えながら通り過ぎた。僕は、岬のもっとも突き出した岩の上に立った。風が強い。ダイアナの髪が乱れた。その髪の毛をかき分け、不気味に突き出した丸い唇を見た。ダイアナ、軍曹のところに行くんだ。僕は声を出さずにそう言った。背後でカシャッと音がした。さっきの3人組が、インスタントカメラで僕とダイアナを撮影したのだ。きっと傑作が撮れたに違いない。僕はかまわずダイアナを放り投げた。強い風は、ダイアナを一旦空高く跳ね上げ、それから一気に僕の方に戻した。ダイアナは僕の足元の岩に勢いよくぶつかった。そのまま岸壁を垂直に転がり落ちるようにして、はるか下方の波に吸い込まれていった。僕は足元に生えていたオレンジ色の花をむしり取り、上から投げた。小さな花はすぐに見えなくなった。ダイアナは、波に巻かれるようにして、時折その姿を見せた。何度も何度も岩に激突している。
「軍曹、さようなら」
 僕はダイアナを見ながらそうつぶやいた。それから顔を上げ、沖の方を見たとき、ふいに涙が流れてきた。

   僕がその場を離れると、さっきの3人組が待ちかねたように走っていった。きっとダイアナがどうなったか確かめるのだろう。僕は振り返ることなく、歩き出した。中程まで戻って来たとき、ふと考えた。この場所で見る夕陽はどんなものだろう。きっとすばらしいものに違いない。軍曹とダイアナは、毎日その夕陽を眺めるのだ。そう考えたら、何だか楽しい気分になった。

   停留所では、バスが乗車口を開けたままエンジンを吹かしていた。僕は3人組と別のバスに乗れた幸運に感謝した。熱海に帰ろう、そう思った。そうして、またあの景色の中を歩くのだ。
「そう、とびきりの景色だ」
 バスの窓から、軍曹のにこやかな笑顔が見えた。

   了


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